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tuckchickborn>hisano

Author:tuckchickborn>hisano
大川久乃です。

『はたきがけこうしん』(文・大川久乃 絵・下田昌克
こどものとも年中向き/福音館書店/2016年6月号



『キャベツのくすくす』(文・大川久乃 絵・伊藤秀男
こどものとも年少版/福音館書店/2012年6月号



定期購読のほか、
お近くの書店、
福音館書店MO係 TEL:03-3262-1642でご注文可能。



chatterbox:おしゃべりな人
chatterer:さえずる小鳥
Char:ちゃあ
    名に「久」のつく女児の愛称

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思考整理の夢見

2009.02.27 00:00|暮らし
ここ数日、まるでわたしが気にかけていることを
ひとつひとつ書き出していくみたいに毎晩いろんな夢を見る。
心配事を夢にまで、というと、うなされたりドキドキしたり
あまり良い感じがしないけど
目覚めると、いたって平常心だから少し違う。
先日の夢には「あぁ、わたしはそんなことも気にしていたのか」と思い
でももうそんなことは起きないよ、と自分に告げたりした。

そして今朝の夢で、この思考整理のような夢見群は
感動的なエンディングを迎えたような気がしている。

今朝、わたしは木霊(こだま)に会った。
それはもう、もののけ姫に出てくる木霊ちゃんそのままを
倍くらいの大きさにしたような具合のだった。

夢の中で、夫とわたしは彼の運転する車でどこかに到着し
その、木霊がたくさん住んでいる巨木に出逢った。

まずはその霊木の迫力と、緑の濃さに圧倒され
ザワザワザワーと揺れる葉っぱのなかに
少しずつあの笑顔が浮かび上がってくるのを見た。
だんだんとその輪郭がはっきりしてくると
幻なのか葉っぱなのか風なのかなんなのか分からないけど
木の命があの姿になってわたしの目には見えているんだな
という実感が湧いて、
ふしぎなものを見ているというよりも、すごくリアルで圧倒されていて
となりにいる夫に「見えたよ、見えたよ」と心からの嬉しさを伝えていた。


しばらくすると、また一台車がやってきて、
降り立った3人のうちの女性ひとりがあんまりうるさくはしゃぐので
わたしはそこを去りながら後ろ髪ひかれて
霊木に失礼ではないかと、ちょっとハラハラしていた。
今思うとあの女性、Dr.スランプのきみどりあかねに似ていた気がする。

子供の頃、わたしはアラレちゃんがだいすきで
ビデオもマンガもアニメも見ていて
あかねみたいな感じは、自分にはぜったいなれないタイプだと
心秘かに憧れてもいたりして、なんどもなんどもマンガで読んで
あかねのフリョーっぽいセリフを、こっそり部屋で口に出して言ってみたり
タローとアカネちんの絡みがもっと見たいと
期待でドキドキしていたなー。



***

3月15日に上野水上音楽堂で開催される
「バカでもできるもん! 環境作戦会議」で絵を描かせてもらってます。
まずは、ポケットだいもんだいちずということでアップされました。
だいもんだいちず

詳細は右上にあるこの↓「バカかん」バナーをクリック☆

バカでもできるもん! 環境作戦会議
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髪を切ったじぶん

2009.02.25 08:30|暮らし
三十でひと区切りだしと、今年度は婦人科検診の内診を受けました。

”触れるものもないし、
 大きさも正常だし大丈夫でしょう”と力強く言われ、
ふと思ったことがありました。

内臓のそのほとんどは、自分で見ることも触れることも
「うむ、在るな」と姿形を認識することも難しく
産まれたときからわたしの内側に存在し
それこそ内助の功で支えてくれている。

それがさらには、今のところお陰様で
「正常な大きさ」であるらしく異物なく「健康」らしいということ。
これってけっこうすごいことだよなぁ。

この事実に、自分のことながら
わたしはどれだけ力を貸せたのだろうと思う。
でもきっと、わたしがしてあげられることはあんまりなくて
そんなものが自分の内側にあるというふしぎ。
じぶんの意識ではどうしようもできないものが、わたしを生かしているふしぎ。


7~8年位ぶりにバッサリ髪を切りショートヘアにしました。
数日経って少し見慣れてきたじぶんの顔を
トイレから出て手を洗いつつふと鏡のなかに見て、
なんとなく先日の検診を思い出していました。


お母さんの子宮のなかにわたしは宿ったけど
そんなすごい関係だけど違う人間で、
わたしのなかにはお母さんを宿せない。

今、地上で生きているどんな命もあてはまらない未知の命を
わたしはじぶんのなかに宿す可能性をもつ生き物。
そのときやっぱりすんごく密な関係だけど、
でもやっぱりその命はわたしのものじゃない。

ふしぎだ。神秘だ。
でもこの感慨は、
父さん母さんありがとうの想いにいちばん近い気がしてます。

成長のチャンス

2009.02.17 08:35|ヨガ
台風です、春一番の台風です。でも確かにこの強風が春の到来を告げています。
「一回暖かくなって、体を一度開いちゃったから、よけいに寒い」
と、この冬に逆戻りみたいな寒さを、ナオ先生が言っていた。確かにそんな感じ。

いろいろなものいろいろなメッセージが押し寄せて
それがどれもわたしの魂に響いたり突き刺さるようで
ハッキリ言って打ちひしがれているに近いような状況です。
自暴自棄がいけないのです。
自分でしっかり立ってさえいれば、ポジティブに落ち込むはずでしょうに。

でもそのときどきの浮き沈みを、
わたしは夫や友人達に支えてもらい、諭してもらい救われています。
(友人に茶福楼オーナーもヨガの先生も含めちゃって言ってます! キャー)
それから、刺激のすべてが、学びだとも思えています。
この期間会ったり話したりコンタクト取ってなくても
家族や親戚や大切な友人たちの存在は、それだけで
自分に戻ってくる理由になり、支えになり、守ってくれています。


昨日はヨガシリーズクラス2の二回目でした。
ヨガはほんとうに良いです。わたし毎日やるべきです。
分かってるなら実行するだけなのですね。
やりたい=やる。ここがひとつになること、距離がないことが、
自分を大切にすることであり、自分を律することだろうと思います。

ヨガの教え、アーサナのときの注意ポイントやガイド、すべてが
人生にも創作にも生活のいろいろに繋がって、身につまされます。
そしてわたしはヨガをするとき、「花」になります。
ぐっと地中に伸び根を下ろして、大地とのつながりを実感して、
足の裏の力が太もも裏や腰、背骨をまっすぐにして、
上に気持ちよ~く伸びるとき、
春に、誰に起こされるわけでもなく芽を出し花を咲かす、草花になるのです。

Self Empowermentという言葉を学びました。
ヨガはこれを学ぶ? 養う、のだと。
日本語でこれに当てはまる言葉は、ずばりは無いかもね、と
話していたけど、最近耳にしなくもない「自活力」はどうだろうと思いました。
でもやっぱりちょっとニュアンスが違うのかな。
とにかくself empowerment
イッターというような感じでした。あちゃ、イッターイ・・・
わたし、学びましょう。学びましょう。おおいに学びましょう。

あーそれから、簡単な動きのアーサナのときほど
気がそれてしまいがちだけど、ここで繊細に動きを感じたり集中できるようになると
何もない日も何か楽しいことがある日もどんな日も
楽しめる(集中っていうかね)ようになるっていうのも、はぁー!って。

なぜこんなに台風なのか。

○横谷宣さんのトークイベント
○『沼地のある森を抜けて』読了
○佐野洋子『シズコさん』の影響

間違いなく普通だったら、このひとつひとつについて
記事を書くと思うのですが、ちょっと今は勿体ぶって。

それからやっぱり、なにより家族のこと、書くということについて。
家族のことって、自分のことです。
家族はわたしにとっての一番最初の「社会」で
そこで学んだり、クリアしてこなかった課題や新たな学びが
わたしの人生には常に大きく関わっていて
それはつまり、わたし自身の、大きな意味での社会との関わり、
というか「私」なんてのは対社会、対他者があるから感じられるわけで
(ひとはひとりでは生きていけません)
だから、つまりは、ほんとうに根源的な自分自身の問題です。
これは、ずっと学びです。

あとはもう、創作のこと、文章のこと、絵本のことは
つまりはわたしにとってはこれは生きる道そのもののことです。
だからわたしが今打ちひしがれたり悩んだりするのは
生そのものです。味わいます。

でーもー、味わうを、言い訳に自暴自棄になっては
周りも迷惑自分もつらいですねぇ。
なので、律します。カラダを動かして、自分の中の
self empowermentを養い、自分の両の足で立たなきゃ。
そのうえで味わわないとね。
でももしかしたら、味わうまでいかなくても
それまでのプロセスそのもの(自分で立つ、ということ迄)が
わたしにとっていちばんの必要なことなのかもしれません。
やっぱりヨガかー?! ヨガかー。ヨガだー。ヨガだやっぱり。

ええこ30才の誕生日でした。おめでとう!

友人ご夫妻のおうちで、タイ料理頂いてきました。
カナダ生まれ&育ちの日本人の男の子も来ていて
いろいろと興味津々で聞いちゃった。同年代だからこそすごい面白かった。
ドラえもんは、ちびまる子は見たか、ドリフは?
(ほんとうは金パチ先生とかも聞きたかったけどやめた。
それに彼は男子なので、アニメというより戦隊物だった。そっか)
やっぱりBOOWYは尾崎は通過したのか、
ALWAYS三丁目の夕日にノスタルジーは感じるか云々。
実にくだらないけどわたしには興味深かった。

憧れのダックスフンドを触りまくった。超かわいい。
みちよちゃんの愛犬ピカソを思い出すからたまらなく愛おしい。

寝かしつけるという行為(触ってるうちに目を瞑ってくれる)は、
母性本能をその対象にヒジョーに抱かせるなぁ。
今まで寝かしつけたわんこは、今回のトトちゃんと
いとこの家にいたマルチーズのペル、そしてうちに来たばかりのときのロビン。
赤ちゃんはやっぱり姪っ子甥っ子。

小さな命を寝かしつけるという体験は
強くて静かで大きな愛をこちらに育ててくれるのかも知れませんね。

横谷宣さんのトークイベントのことはまた振り返って書けたらと思います。
でも今は少し、ノートに向かうか、ひとり心に向き合うかすることを
まずして、血肉にしようと思います。

今、成長の大チャンスです。

はるいちばレンタイん

2009.02.14 00:00|読んだ本のこと
マイブーム”って言葉は、みうらじゅんが作ったんですってね。
知っていました? わたし恥ずかしながら知りませんでした。

さいきんのマイブームは・・・わたしは・・・
あ、なんだろう。
あぁ、きらいなのに口ずさんでしまう「かぶきぃーあるあ~るー」かなぁ。
だぼだぼパンツにぺたんこ靴、おっきなピアスも定番。
言い出したら止まらない。
ぬか漬けと、ヨガ、本は佐野洋子に梨木果歩。
今『沼地のある森を抜けて』の合間に、
息抜きで佐野洋子のエッセイ『がんばりません』読んでるんです。

がんばりません (新潮文庫)がんばりません (新潮文庫)
(2008/07)
佐野 洋子

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マイブームってどの域を超えたらそう呼んでいますか?
こう羅列し始めたら、暮らしそのもの、ということにさえなりそうです。
つまりは暮らしはマイブームによって成っていますね。
だからそうでもないものをそぎ落としていけばシンプルになれるのかもしれません。
欲望もまた然り。

でもわたし、ヨガのナオ先生に出逢ってから、
暮らしはシンプルにしたいけれど
自分をシンプルにしたいとは思わないようになってきました。
迷ったり落ち込んだりといういろいろな「余計」も、味わおう!がテーマに。
人生は悟りの道じゃないんだと。
ぜんぶを味わうぞと。これもマイブームっちゃマイブームなのかもしれません。


さて! 昨日は、初朗読をいたしました。
しあわせのあぶく バレンタインカフェ
"marche du chocolat" にお越し頂いた皆さま
ありがとうございました。

カフェ好き人間のわたしですから、
フードチームしあわせのあぶくさんによる空間、
見た目にかわいく、とーってもおいしいメニューたち
ひとつひとつに、本番までのひとときすっかり楽しんでしまいました。
かぼちゃのスープ、ほんっと美味でしたぁ。

ショコラショーって飲み物だったんですねぇ。
わたし、ショコラシュー、シュークリームだと思っていました。
お越し頂いた方々には、
その甘くていい香りのこっくりショコラショーと
手作りのお菓子たち、帰りにはおみやげまで振る舞って頂きました。

そしてライブは、
フランシスマヤちゃんがセレクトしたラブソングをたっぷり聴かせてくれました。
遠藤氏のギターもきらきらと空間に鳴りひびき。
みんなうっとり。ショコラショーの香りに包まれほんとあったかかった。

わたしの朗読は、「深呼吸する言葉・おおかわひさの」から
14コの詩をチョイスして、読みました。
ギターの調べにのりながら、
マヤちゃんとわたしで交互に読み進める形で。

そのあとH.C.アンデルセンの「すずの兵隊さん」より
フレッドマルチェリーノ絵のすてきなこの絵本を使って。
すずの兵隊さん (児童図書館・絵本の部屋)すずの兵隊さん (児童図書館・絵本の部屋)
(1996/12)
ハンス・クリスチャン アンデルセンT. サイドラー

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原作では、すずの兵隊さんの目線でお話が進むところを、
わたしが書いた、お相手の紙のバレリーナの目線でのお話を
読み聞かせのスタイルで。

演奏の前半後半の間に朗読、という進行だったのですが
わたし自身とっても心地よく、マヤちゃんが創り出してくれた
音の世界の中でゆったり読むことができて至福でした。
ほんと、前半でもう聴き入って泣いていましたから(笑)


今日はいよいよ春一番が吹いたそうですが、
春を迎えるお祭り、あの場に居合わせた皆さんとできた気がして
ほんとうにうれしかったです。ありがとうございました。
すてきなバレンタインを、そしてとっておきの春をお迎えください。

しあわせのあぶく おみやげ♪
↑from しあわせのあぶく。ひとつひとつが手作りで愛情たっぷり。
和菓子「ひとえに」
↑聞きに来てくれたピアニスト要くんのおみやげ。「たねや」の和菓子”ひとえに”。
梅の枝が1本、そしてそこみ結び文がしてあって、二段重ねの箱には和菓子が。
なんてかわゆいのー!


スッチーのいとこが来てくれたけど、
彼女が覚えている子供のころの記憶と
わたしが覚えている記憶は、同じ出来事でもやっぱり目線がちがくて
すごく新鮮でおもしろかった。
同い年だからよく一緒に遊んだしお泊まり会もしたものです。
こんど取材もかねて(笑)いろいろ聞きたいと心底思った! よろしく!

真実を愛す刻

2009.02.12 08:30|暮らし
一日の始まりにふとラジオから流れただけで
思いがけない彩りを添えてしまう音楽がある。
聴いた者が、一日それを身に纏い過ごしていくことになるくらい。

今朝は、出がけに『春の手紙』が流れた。
 春の手紙 大貫妙子 大貫妙子さんのナンバー(って言い方はもしや古い?)

わたしはこの曲がだいすきで、下手ながら
7才から続けてきたピアノを弾くときにいちばん気持ちよく弾ける曲。

今日はいい天気。すばらしい青空。
凛とした空気に、溢れるくらい「春のうららか」が浮かんでる。
春だ、春だ、春がきた! と、うれしくてたまらない。

日本のあちこちには「春の到来を喜ぶ」お祭りや市、行事がある。
わたしの今日には朗読初めを行えるライブがある。
春を喜ぶお祭りに、こころの中では致そう、と思う。



きのうはやっと大切な知人を連れて茶福楼を訪れることができた。

いろいろな話をして、カードも引きまくり、思えばお茶もずっと
オーナーがサーブして下さり、明らかに自分で淹れるよりずっと美味しかった。
贅沢で、元気で、幸せで、充実した帰り道、

冬の次が春であることの妙というか、すばらしさをつくづく思った。

当たり前だけど。
でも考えれば考えるほど、自然はやはり偉大な先生だ。
厳しい冬の後にこそ、そしてまだ少し冷たい空気の中でこそ
春はありがたく、実感できるものだということも。


**
土曜は、姉が息子ふたりと愛犬を連れて遊びに来てくれた。
犬を連れて入れる、ガレットのカフェ「うさぎ館」へ行き、
井の頭公園を散策したり、甥っ子ふたりとボートにも乗った。
その日だけ、春が遊びに来てくれたみたいな暖かさだった。


***
日曜は、多分5~6年ぶりの再会を果たした。
ステンドグラス作家のすてきな女性、市川さん。
ずっとわたしの活動も気にかけてくださっていて
年賀状でのやりとりからことしは再会に至った。
すてきな場、すてきな方々をご紹介下さって、うな重を食べた。

作家であるおじさまが、わたしたちの本『tuck chick born』を見て
「文学的だね」と言ってくれたのが、しみじみと嬉しかった。

分類やジャンルはやはりわたしたち物書きが考えることではない。
真摯に熱く、わたしは書きたいものを捉え書いていこうと誓った。
今はその、「捉える」ところが、課題だけれど。

数年ぶりの再会をしたばかりのほんの3日後、
ふとつけたTVに、藤枝守さんが出ていてビックリ。
市川さんには、藤枝さんのコンサートに連れて行ってもらったことがあったんだ。
明日館を訪れたのはそのときが最初で、
その場で様々なひとに、「作家のおおかわひさのさん」と紹介してくれたが
そんな肩書きをつけられたのは、そのときが初めてで、
嬉しかったのと恥ずかしかったのとをよく覚えている。
あの日わたしは「作家」になったのだ。なんて。


****
シリーズクラスのヨガも始まった。ナオ先生だいすき。

手と手を合わせるのは深い意味があるそうだ、
じぶんのなかの男性性と女性性を合わす。

前回シリーズから今回のスタートまでに
ひと月と少しの時間が流れているけど、そのなかで幾つも台風があった。
バラバラに発芽する、イロイロなわたし。
ダメなわたしも、きらいなわたしもいっぱいあった。
そのひとつひとつを、両の手のなかに迎え、頭を下げた。

すべてがわたし。味わおう。

ヨガはいい。やっぱりいい。しみじみと、いい。


*****
ぬか漬けを始めた。2009年はぬか床を育てるつもり。うまく育つかな。
その後読み始めている
『沼地のある森を抜けて』は、ぬか床がキーになっている話。

沼地のある森を抜けて沼地のある森を抜けて
(2005/08/30)
梨木 香歩

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家族のこと、命のこと、営みのこと。


******
北山耕平さんブログ「Native Heart」2/9の記事。
セネカ一族の認識するライフ・サイクル

わたしは今、この時計にあてはめて考えると
人生の中で「真実を愛し、真実に仕え」ようとしている時刻にある。
まさに、と感じる。愛して止まないが、まだまだ片想い。
ちなみに、希望の光の方がわたしには目をつぶさんばかりで
真実の光というのは、遠くに小さく見えているかすかなものというイメージ。
皆さんはどうですか?


と、この時計の話は、だいすきな金八先生でも
ちょっと内容は違うが、同じような考え方で、話があったなぁ。
金パッちゃん、またぜひ新シリーズやってほしいなー

キャベイベ

2009.02.07 00:38|暮らし
このキャベツむきやすいなー、ロールキャベツできたなー
と思いながら、丁寧に葉を1枚1枚はがして使っていたら
とうとう! こんなになるまで!

キャベイベ

あんらー。こんにちは、キャベツの赤ちゃん。
子ども時代ってそう、過去じゃなく、
誰もが内包してるものなのよねぇと、思わず呟く。


だいたいいつも、葉はびりっと破れ、
半分も使わないうちに諦めて
包丁でまっぷたつにしちゃうことが多かったから。
感心してしまいました。

またこんなキャベイベに会いたくて、
新しいキャベツも剥き剥き頑張っていたけど(うちはキャベツの消費が激しい)
やっぱりうまくいかなくてある晩すっぱり割りました。

「本の花、ガラスの華」

2009.02.06 00:35|つれづれごと
横谷宣「黙想録」を堪能したあと、
つい数軒お隣に神田明神さんがあったので参拝した。
おみやげやさんでは、最近ほしいナと思っていた「火打ち石」をゲット。
お新香も味見ポリコリ、おいしーたのしー。

そして、九段下へ移動し
「足立涼子、高見澤英子
―本の花、ガラスの華、青いロマン主義を見つめて」
 を見た。

足立涼子、高見澤英子

それは本の形態をとるアート作品。そう聞くだけで心惹かれ
たんじゅんに「かわいーすてきー」とツボをくすぐられもし、
しかし実際の姿態は、やはりそれだけではない深く静かな世界。
薄氷のはった湖水の煌めきを、白い溜息つきながら眺めてるみたい。

紙は、和紙だったり、蝋だったりして、その半透明が美しい。
頁におかれるのは言の葉ではなく、自然植物。
種子だったり、手折った小花だったり、葉枝だったりして
やっぱりすごく「すてきー」。

「<本>が個人に向けて語りかける空間であることを
再認識し本を作りはじめ」
た、というそれらは
それぞれの時間をかけて、それぞれの地で芽吹き、
風や雨や陽を浴びたであろう命の実感が
密やかに、でもはっきりとしたコトバみたいになって
そこに在る、という感じがした。
押し花よりももっとリアルに、そこに咲いているみたいだった。

足立さんのHPもくまなく見たりして、
いつかええこと訪れていた吉祥寺のギャラリー人-jin-は、
谷中に移動していたことを知った(閉めちゃったんだと思っていた。よかったぁ)


高見澤さんのガラスも美しかった。
木のように立つ凛としたグラスは、大きな花や葉をつけている。

作家が息をふーっと入れたら、カップ部分ができる前、
ちょうど幹からぽわんっと花が咲いちゃったみたいな、そういう勢いがあった。
バーナーワークに、吹きガラスみたいな工程があるのか知らないけれど。

九段下のギャラリー册にて23日までやっています。

そうこのギャラリーもしみじみ素晴らしい空間。
夏の、シュタイナーシンポジウムで2度訪れて以来。

地下鉄の駅からお堀沿いに折れて行くが、
そこもすてきな小径になっていた。
そういえば、夏に行ったときはずっとフェンスが立っていたんだ。
工事をしていたのが、桜の季節を前に完成したのだね。

それに通常営業日の訪廊は初めてで、他に客がなくゆったり。
注文した珈琲が実においしく、全身が満たされてゆく時間を過ごした。

横谷さんの写真、本とガラスの花、そして佐野洋子のエッセイに
お堀の向こうに暮れゆく節分の夜が、どれも静かに凄まじく、美しかった。

横谷宣「黙想録」

2009.02.04 12:15|つれづれごと
とうとう風邪をひき、さほど酷くはならなかったものの
気持ちや思考も体調悪しという感じに区切りをつけたくて
節分だし!と午後を急遽お休みにして、なかなか足を運べないでいた
横谷 宣 写真展「黙想録」 をようやく見に行ってきた。

    横谷宣写真展「黙想録」~2月28日(土)お茶の水gallery bauhausにて  ©横谷 宣
 


『孤独な鳥はやさしくうたう』の著者田中真知さんから案内を頂いていた。
同書に収録されている「十年目の写真」は、横谷さんとの出逢いにまつわる話で、
読者はきっと誰でも、その写真家の撮るものを実際に見てみたいと思わされるだろう。
わたしも、そうだった。
こちらの記事の下方に、期間限定で「十年目の写真」PDFファイルがアップされています!

2ヶ月の会期ももう折り返し地点で大盛況のようす。
先月末には産経新聞で取り上げられとの案内も頂いた(→1/26付け産経ニュース)
でも、
「ご託などほんとうは並べたくないが、足を運んでもらいたいがゆえ。
写真を見るときはここに書いてあることは一切忘れてほしい」
と書いていた真知さんの希望通り、わたしもぜひそうしたかったし
なるべくでもそうしなければいけないように感じていた。

カメラという道具を用いて、その写真家が得ようとするのは、
既成のレンズは精度の良さゆえに抜けおちてしまうものがあると、自作レンズがつき、
 一枚のプリントに半年を要する超のつく手間かかる現像工程)、

9年ぶりに故郷に帰ってきた難民女性が、
なつかしいというだけでは到底表しきれないであろうその地を
食い入るように見つめていた、そのまなざし、
「地上の存在を無条件に肯定しようというまなざし」と、読んだ。

わたしはどうか、その「まなざし」が映し出すものに
まっさらなきもちで向き合えるように、
入り口にある柿の木の下で一息ついてからギャラリーに入った。


一枚目の写真で「な、なんだろう」と思った。
そのフロアを二回半、ゆーっくり見てまわった。
少しずつだが、よけいなものが頭の中から消えていく気がした。

そして、ようやく地階があることに気づき、より深いところに降りていき
また、一枚一枚と見ていくと、
海辺で、ふくらんだ長いスカートを履いた母親が少し腰を曲げて、
砂浜に座っている小さな子どもの手をひこうとしている(と、見える)写真があった。

写真の奥では、波打ち際を走っている小さな影があり(たぶん親子とは他人)
その影が、これは絵ではなくて、一瞬の光を捉えた写真であることを伝えていて

わたしはなぜだか、すごく吸い寄せられて、泣けてきた。
懐かしいと確かに思っていた。
なんだろうーとあいかわらず思いながらも涙がぽろぽろ出た。
ギャラリーその地階では、わたし以外誰もいなかった。


学生のとき、英国のある児童文学についてレジュメを書いて発表したとき
「リアリティというのは人それぞれで違うから」と先生に言われた。
わたしの、「リアリティ」という言葉の使い方が誤っている、
もしくは考えが足りていない、というような指摘だったのだと思う。

でも正直、先生のその指摘の真意が分からず、
分からないままだからこそ、以来、わたしはその言葉に自信をなくした。

イヤもちろん、じぶんの感覚としてのリアリティは普通にあっても、
例えば「あの映画はリアリティがあって面白いよ」と
人に勧めたり感想を述べることを、たぶんわたしは一度もしていない。
別の言い方を、選んでしまう。簡単には使えない言葉になったのだ。


でも、この写真展を見ている最中、
ずっと頭にはリアリティと、記憶という単語があって
それはもしかすると、この展覧会への寄稿文や記事のあれこれによる
植え付けなのかもしれないと自分を疑いつつも、
見れば見るほど、わたしは「リアリティがある」と思っていた。

記憶という言葉も、単なるそれではなくて
魂の記憶と言うと、なんだかちょっと気が引けるが、

例えばちょうど、このときも鞄に入っていてその夜に読み終えた
佐野洋子さんのエッセイ『シズコさん』では
後半、呆けてしまったお母さんとのことが書かれていて、
50年以上洋子さんを苦しめていた「母を愛せない」という
自責の念が解放を迎えるのだけど、
例えば、自分のことも、自分が子供を産んだと言うことすら忘れてしまっていても、
この記憶は残るんじゃないかなと言うような類の、記憶。

リアリティといっても、触れる、見る、味わう、とか五感を駆使しなくても
例えば、産まれてすぐに目の見えなくなったスティービーワンダーが
「Ribbon In The Sky 」と歌い、
秋の薄い更紗のような雲が、まるでほんとうに美しいリボンのように見えて、
なんてすごいタイトル! と、泣けちゃうみたいな
(歌詞の内容的には「運命の赤い糸」的なので、空の雲と関係在るかは分からないけど)
そういう感覚でのリアリティ。記憶。


写真につけられたタイトルは、英語なのかさっぱり分からなくて、
この人は何をしているんだろうとか
この子はこのあとどうなったんだろうとか

まるで絵みたいなのだけど、写真だから、
じっさいに実在した瞬間なわけだから、どうしても気になると思っていたけど、

でも、もう一度、全体を眺めてまわると、
それはわたしの、他者(被写体)への好奇で、
横谷さんの映し出した写真は、その好奇を寄せ付けないのだった。

そうだ、九年ぶりに故郷に帰ってきた難民女性の人生やドラマじゃなく
その「まなざし」を、その視線こそ、なのだ。


浜辺の親子のその瞬間が、わたしのなかに見出せて涙が出たとき、
やはりわたしはその母であり、子になっていて、青が見え、波の音が聞こえた。
でもその記憶の「まなざし」をそのままそっくり紙に写し出したら
きっとやっぱり、モノクロで、光の陰影でぼんやりとして美しい、
この一枚に、なるのかもしれない。


また、わたしはインド象が見たいと思っていてタイに行きたくて、
(象に限らず、動物園じゃなくて野生動物の生きる姿を見てみたい。
 この地球が人間だけのものじゃないと、よっぽど痛感するだろうなぁ)

すごーくすてきな、遠くに象の輪郭がぼやりと写っている一枚があったが
いつか少しの滞在の旅先で、わたしが象を見るときがあっても、
こんな静かな気持ちでは、その光景を見られないのじゃないかと思う。


最後に、出入口に一番近いさいしょの写真をもう一度見た。

やっぱり、ぼんやりとしてなんだかは分からないのだけど
そのぼんやりのまま、わたしのなかにぼんやりあるものに、触れた。


ギャラリーを出て、神田神社をお参りした。
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