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大川久乃です。

『はたきがけこうしん』(文・大川久乃 絵・下田昌克
こどものとも年中向き/福音館書店/2016年6月号



『キャベツのくすくす』(文・大川久乃 絵・伊藤秀男
こどものとも年少版/福音館書店/2012年6月号



定期購読のほか、
お近くの書店、
福音館書店MO係 TEL:03-3262-1642でご注文可能。



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    名に「久」のつく女児の愛称

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この素晴らしき世界

2008.12.30 17:50|つれづれごと
Exquisite - 松谷靖之 写真展2008-この素晴らしき世界
         Exquisite - 松谷靖之 写真展2008

年内さいごの展覧会。
友人で、うちらの結婚パーティのときも撮影してくれた
ハートの熱いカメラマン松谷さんの個展!

愛や慈という言葉で切り取るには足りない
何かで満ち溢れた空間。
松谷さんの心の部屋におじゃましたような
それでいて巡る年を、この素晴らしい世界を、
少し遠くから、もしくはど真ん中から眺めているような
すばらしい写真展でした。

Exquisite とは、はじめて聞いた単語。
よくもわるくも使える言葉らしいのだけど、
とにかく突き抜けている、そういう意があるそうです。

そして、この素晴らしき世界という副題。

ほんとうに、ほんとうに、そうだな。すてきだな。

最終日のおわり間際の時間におじゃましたあとは、
渋谷で上映していたcocco主演の映画
大丈夫であるように。』をレイトショーで観てきました。

大丈夫であるように。
祈りの映画。愛しさと、生きろというメッセージに溢れた映画。

明日大晦日は母の誕生日。わたしに命をありがとう。

この素晴らしき世界を見せてくれてありがとう。

今年もほんとうにありがとう。
来年もまた、この素晴らしき世界を、
たくさんの縁と、そのなかにあるわたし自身を
いっぱいいっぱい愛そう。

今年の漢字・・・・「巡」だなって、今。

よいお年を! そして来年もよろしくお願いいたします。



**The Holy Zuking Nightの写真**
スズキコージ展 スズキコージ展 スズキコージ展

けっきょく2回も足を運び、2度目はスズキコージ氏の
ライブペインティングを拝見、
サインももらって、握手もして、会話もしちゃって
奥様にはワインも頂き、いい気持ちになりながら空間を練り歩きました。

いずれも、顔を出して写真撮影していいスペースでのもの。

この最高に怪しくカワイイ化け物たちの
おっきなおおっきなお目目から覗く景色は・・・

2009年、きっとまたワンダフルな一年になるでしょう!

まさにExquisite!な展覧会でした。


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足ふみ解釈 耕せじぶん その3

2008.12.28 00:00|つれづれごと
前、前々回記事にあげた3つの人の視点と
さらに田中真知さんのブログ「王様の耳そうじ」

11月9日に、「政治の話しなどしたくないのだけど」と前置きして、
定額給付金のことについて触れられています。
いつもながらに笑わせてくれながらこう書けるってすごいと思った。

さらに同記事のコメントにも、頷きました。
ちょうどそのとき、身近なところで急に手術が必要になった人がいて
その人といっしょに学ばさせてもらったのだけど、
ほんとうにこの国には国民保険、医療保険など
「へ~っこれは助かるね」という制度がけっこうある。
でもほんとうにややこしくって、窓口がいったいどこなのかわかりにくい。

「知ろうとすればするほど際限なくなって、
 けっきょく得なのか損なのかわからなくなる、そのさじ加減が難しい」

と真知さんが書いていたけど、まったくその通りだな。

でも、わたしたちは、自分で選んで、知るなら知る、手放すなら手放すを、
自分で行って生きていくんです、この列島で。


わたしたちは、世界の見方を
好みで学んで、選び、養っていく自由がある。
それぞれが、わたしにとってのこういう人(もの)に出逢い、指標にして、
ゆっくり自分のものにして、マスコミも政治も含めて、
ひとりひとりがちゃんと見ていこう。そう言いたい。


ここまでの3つの記事で紹介したブログなど(ぜんぶリンク貼っています)は、
30代という肥沃な大地での人生仕事をはじめたばかりの
わたしにとって大きな指標となりそうです。
どこそこの新聞よりも、ニュースよりも。
そういうものを見つけて大人になれることは幸せなこと。
ありがたいです。

わたしのこの日記を見てくれている人にも、 おそらくわたしと同じように
「誰か世の中のこと教えてくれ」というのを本音とし、
政治や、犯罪や、経済、世の中のことを、
住んでいるのに「眺めて」て、混乱しつつも胸を痛め
思考や言葉や専門用語の必要ないこころの奥の奥で、
それらに対して誰よりも「NO」を言う揺らぎない確固たる想いがあって、
それはとっても真っ直ぐで、
でも自分は”知らないから”意見できない、となってるばっかりに
実にもったいない自分を含め「あなた」にも、

ヒントになればと願い、以上を書くことにしました。


11月、シャケと軍手という演劇について、
やっぱり田口ランディさんが、そして同時期よしもとばななさんが
ブログで書いていました。
この演劇は、秋田の児童連続殺傷事件を取り上げているそうです。

ヨガのナオ先生がばななの新刊『彼女について』を読んだと言っていて、
わたしもやっぱり読もうと決め買いました。

彼女について彼女について
(2008/11/13)
よしもと ばなな

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とにかく、こういうことを想う流れのあったこの数ヶ月に、
わたしに、高尾や沖縄のヘリ問題のことを、
身近に考えさせてくれる縁があったことも
必要な、贈り物。。。。だったのだろうなぁ。
と、思いながら、ひとまず終了いたします。

足ふみ解釈 耕せじぶん その2

2008.12.27 00:33|つれづれごと
前回の続き。

そのことを、ここで綴るにはやっぱりまだまだ言語化できないとき
深呼吸する言葉を率いる橘川幸夫さんが
メンバー向けのメルマガで、厚生省元官僚殺傷事件のことを書いていました。

そこには、
マスコミは「34年前と現在のこと」だけを論評しているが、
大事なのは34年間そのもののことなのだ
30年以上前の出来事を風化させることのなかった犯人の執念ではなく
34年間の、彼の心の空洞を恐怖した  
というようにありました。

また同じ事件について、田口ランディのブログでも触れられていて

滑稽で悲しいこと」と題したその記事は今は削除されているけど、
ご自身の思い出とからめながら、
がんじがらめの妄想のなかで、自分がどんなに辛かったのかを
 たぶん、家族にぶちまけてみたかったんだろう

と推測し、自身の家族体験を基盤に、
暴力の質は家庭内暴力なのだと思う。」
と持論を展開、さらにこの30数年間という時代を
なにか歴史的な歪みが(いわゆる団塊の世代から次世代へ)
 受け継がれたことは確かだが、それは、検証も証明もできない。
 きっとこういうことを書くために、物語というものがあるんだろう
。」
と、締めくくっていました。

物語についての部分は、藤谷治さんの稗史や小説の部分と大いに重なり、
あぁ、ペンは剣より強しとはこのことなんだ、と。
(ランディさんの物語は、わたしはやっぱり合わないのだけど。。。でも)


藤谷さんも橘川さんもランディさんも、世間をにぎわす事件について、
それぞれの事実(経験)、感情、考えに依って語り
だからこそ同意できる部分、しない部分、ふーんという部分はあったとしても、
共通しているのは、奥行きがあることだと、
なるべく正しく(自分にとっての)、向き合おうとする姿勢だと感動すらおぼえました。


なんだ何が言いたいんだというと、マスコミの表面性の改めての実感。

でも! です。 それでも、それらを知らなければ、
あらゆる加害者(戦争もあらゆる犯罪も)のことも、
そしてこの国で石油を買っている以上どんなにエコ活動したって
やっぱりアメリカに軍事投資している事実があるわたしというひとりの人間の罪も、

その暮らし、その人生、そのまるごと人として
とらえられないんだ、出逢えないんだ。
つまりは、藤谷さんたちのような姿勢を持てないんだ。

わたしもテレビニュースはまったく見ないことを選んできたけど
そしてやっぱり見たくないから手を考えるけど
これまでのように、知らないままではいけないと思ってたのです。

今回のこともすべてそうだけど、
いろいろな事実について知り、解釈を掘り下げる勇気が足りないばっかりに
自分の自覚さえぼんやりさせてしまっていたとも気づいたのです。

犯罪を犯した人を擁護するのではない。
そうではなく、犯罪を内包したわたしたちの毎日を、暮らしを、日本を、世界を、現代を、
ひとりひとりが責任もって知る必要があると思うのです。
だって、わたしたち、そのなかで生きている

解釈は与えられるものではなく、解釈は自分でおこすこと。
畑を耕すようにして、何度も何度も取り組んで、なまけてはだめ。

なのです。  

さらに続く。

足ふみ解釈 耕せじぶん その1

2008.12.26 00:00|つれづれごと
いずれも話題的にはもうすでに古いことかもしれないんだけど
もう何ヶ月も下書き記事として、編集しては保存しをくり返した内容です。

先日のイベント「意識のある暮らし~みんなの気持ちをみたす日」で
コラボしたヴィオラのトビウオリアキちゃんのブログを見て
背中を押された気になりました。ありがとうリアキちゃん。

イベント、ラブラブシンポジウム、コージズキンのライブペインティング
書きたいこと山積みだけど、まずはこのことを年内に。
自分の中で流れも感じるのです。
長くなるので、数回に分けますがぜひ聞いてください。


もう2ヶ月近く前のことになると思うけれど
当時現役の航空幕僚長が
「日本は侵略国家であったのか」という論文を発表しました。

わたしの心の動きはひとことで言うと「」で、
論文の内容以前に(理解できているかも怪しいけれど)、
なぜにこんなに問題になるのかが正直サッパリ分からなかくて、
分からないから、できごとに対する感想すら自覚できないでいました。

公務員であっても国民だからと”言論の自由”を訴えたいのでも
田母神さんの考えに、同調して言うのでもないです。

じっさい、歴史のことは勉強不足で分からないことだらけ
そしてどんなことも、事実に対する解釈は百通り千通り、つきまといますよね。
事実は、解釈を持ってその人その人のなかで真実になる。だから真実は万とある。
その各々の真実を、あらゆる立場の人が、
公にするしない、それもほんとうには問題じゃないとも。

なのに、マスコミの風潮は、
また何よりがくぜんとしこの文をわたしに書かせるのは、
爆笑問題の太田総理のTV番組で、「国民の怒りトップ10」の1位に
「現役の責任在る立場の国のトップが政府見解と違う論文を発表した」
という意見から、この出来事が君臨していたことです。

ほんとうに「えっとぉ・・・」って感じで
わたしもひとりの国民なのに、わたしの中ではトップ10どころか
さっき書いたように、違和感がすごくて、
感想を意識化してするに至らぬほどだったのに。

怒りって、ひとりひとりの意見があって、それではじめて自覚できることでしょう?
アンケートだかネット投票なのか知らないけれど、
ポチッとするには、怒りの自覚があるわけで。

国民って、誰のことだろう、自分だけがずれているのかしら・・・
この番組好きだっただけに(これは本編とはまた別のコーナーでのことだけど)
マスコミとじぶんのあいだに、はっきりとした距離を実感しました。


そんな想いにようやく至り、でもうまく言語化できないとき
オバマさんのときにも紹介した下北沢フィクショネスの藤谷さんの日記
これについて書かれていたのを読みました。
11月11日の記事です。ぜひ、ぜひぜひ読んでください!!! 
(それ以降の記事も、触発されることがたくさんの興味深い記事だらけ!)

藤谷さんは、小説家という立場
いんにゃいんにゃ、そんなの関係ない、人として言っている。

「自分にこの問題を語る資格がないことは、大事なことだと思っている」

わたしは完全ノックアウト。かっこいーーー!!
なぜこう藤谷さんが言い切れるかというと、「自分は小説を大切にしているから」と。
小説の反対語を歴史と考えていると、
そして事実、歴史の反対語として稗史(小説や作り物語を意)という言葉があるらしい。

でもそんなの関係なくても、
歴史、正史とは「国家などが編纂した歴史」と字引が定義しているとか!
それってつまりは、国が変われば歴史も変わるってこと。
あの論文も、今は国家の見解と違うといって問題になってるけど、
国が変わればそれは歴史として教科書に書かれるかもしれないじゃんってこと。

何それ、歴史ってそんななの。事実って、国家解釈って、いったいなんなの?
国民の怒りって、みんな、何に依って、どこに立って、自覚したの?
わたしが、ほんとうの問題じゃないと、おぼろげながらも怯えながらも(いったい何に?)、
胸の内、でも唯一はっきりと最初に自覚した「?」は、まちがってない!


引用させてください。

「山田さんとは李さんのことである。馬さんのことでもある。
 ガボンさん、トーマスさん、スミルノフさん、藤谷さんのことでもある。
 みんな自分の国と家族を愛し、暴力を恐れ、
 できるだけ「正しい」と信じることをしたいと思っている。
 それがどうして人を強姦したり拷問したり、殺したりしてしまったのか。
 本当になんでなんだ
 頼むから「正史」はこの「稗史」の問いに、それは「良いこと」だったんですよ、
 なんてことをいって、答えたつもりにならないでほしい。
 「悪いこと」だったんですよ、も同じだ。
 時代がどうであろうと自分のしたことを、
 背負わなければならないのは自分一人である
。」


胸が空く想いとはこのことだった。。。

太字は、引用(いや、ただのコピペだ)、わたしの想いに依るものです。
ぜひ、全文通して読んでみてください。


続く。

ベランダの音の休日

2008.12.24 17:34|絵本や童話のこと
先週のこと。ことしさいごに平日まるまるお休みデイを作り
なんでもない一日をじぶんのためだけにのーんびりした。

空模様もちょうどよく晴れてくれ
ゆっくり朝ご飯を食べてから
アートコンプレックスでやっているトムズボックス企画の
スズキコージ展覧会 THE HOLY ZUKING NIGHT へ。
カフェでお昼も食べたけど、おいしかった。テラスって最高。

実は昨日も再訪し、今度はライブペインティングを見てきて
コージズキンと握手&会話もしたので、また後日書きます。


そのあと茶福楼へ。
笑って笑ってこころもからだも笑って笑った。

夕暮れの神楽坂をのんびり下って、
年末っぽい雰囲気を楽しみ毘沙門天さんに一礼し
やさしいおばちゃんと、「転んじゃったわ~」と帰宅されたおばあさんが
営まれる(たぶん嫁姑なんだろうな)、
アットホームながら、豊富な品揃えの漆食器のお店に立ち寄り、
ずっと欲しかった手頃価格のみそ汁椀をゲット。

南北線でのんびり実家へ。久しぶりの1泊里帰り。

姪らに、10月に作った絵本『キャベツのくすくす』をようやく見せる。
「すっごいおもしろい~」
「ちゃあちゃん、これ売れるよ~」
キャベツのくすくすを読む子ら

売れるって。。。笑  あ、ありがとね。
あなたたちがいちばんの応援隊。いつもありがとう。

シンポジウム用に描いた絵も
「すごいーこれ、コピーして!」だって。笑

先日贈っていたぬいぐるみたちを、それぞれが持ってきてくれていた。

姪にあげた手作りベアは、「ローズ」という名がつけられ
バラの耳飾りをつけてもらって、すっかり女の子クマのかわいこちゃん♪
ローズという名前になりました

上の甥っ子は、すっかり暗唱できるほど
「おてがみ」(アーノルドノーベル)にはまっていて
がまくんとかえるくんの絵をいっぱい描いていたから
そのぬいぐるみと、『ふたりはきょうも』を。
また新たなお話しも覚えていた! すばらしくってかわいくってギュウ。
ふたりはともだち (ミセスこどもの本)ふたりはともだち (ミセスこどもの本)
(1972/01)
アーノルド・ローベル三木 卓

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下の甥っ子には、ぐるんぱのようちえんの
ぐるんぱ巨大ぬいぐるみをあげたんだけど、
なぜか名前は「ぞんび!」。

でもまだ「ぞ」がうまくいえないから「じょんび」っていう。
びっくりしたけど、彼が「じょんびーどこー」とか言っているのを聞いているうち
なんていい名前だろう!!って思った。

ぐるんぱのようちえん (こどものとも傑作集)ぐるんぱのようちえん (こどものとも傑作集)
(1966/12)
西内 ミナミ堀内 誠一

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姪にはテディベアが出てくる自作の物語をあげていて、
それに対して言ってくれたこと。

「ちゃあちゃん。お話しもおもしろかったよー
 あのさ、ああいうのってさ、お話しとしてもおもしろいんだけどさ、
 ちゃあちゃんが、わたしのために作ってくれた
 世界でひとつのお話しでしょう。
 だから、なんていうか、メッセージがあるじゃん?
 それがうれしー!」
だって。笑

ぜんぶ、見透かされている30さいのおばちゃん。

翌日は、タイミング良く、下の甥っ子の保育園のクリスマス会。
まぁつまりはおゆうぎ会で、見てきたけど、すばらしかった!
どの子も、先生方も、すばらしかった!
ゴーレンジャー

さいごにみ~んなで合唱していた井上陽水奥田民生の
「ありがとう」が泣けました。いい保育園だな。わたしも卒園児。


その昼下がり。
母がベランダで布団を取り込んだりなんやかんやしていて、
その、上から聞こえてくるベランダのギーギーという音、
家の前の公園にふりそそぐ冬の陽射し

そういうものにすっかり包まれながら、
ひさしぶりにピアノを弾いた。おもいっきり。
まるで子ども時代にタイムスリップしたみたいだった。

そう、わたしは、あの母の、ベランダからの足音が
心地よくってだいすきだったんだ。

忙しい母のひとときに、ピアノを添えてあげる
そんないい気分になるから、
いつもより、ちょっとだけ、
つっかからずに弾けたりするものだったりしてさ。

メリークリスマス。今夜、世界が平和でありますように。

海と山 LOVELOVE シンポジウム

2008.12.18 08:44|呼びかけごと
虔十の会 代表の、坂田さんより
23日にあるシンポジウムの絵を依頼いただいて
ポスターとしてデザインされたものが届いた!

『海と山 LOVELOVE シンポジウム』
いのちの輪と和、沖縄泡瀬干潟&東京高尾山

【日時】12月23日(火・祝日)12:30開場、13:00開始
【場所】東京大学農学部弥生講堂

海と山 LOVELOVE シンポジウム  海と山 LOVELOVE シンポジウム 詳細


もともとわたしは、高尾山にトンネルが掘られようとしていることも知らず
ヨガのナオ先生に話しを聞いて
「ケンジュウって虔十公園林(宮沢賢治)の虔十?」
とそこから興味を持って、サイトをのぞいた。

するとそこには、「楽しそう!」としか言いようのない
でも確かな環境運動のアイデアと実行で溢れていて
ツリーハウスはまるでリアル・トムソーヤでウズウズするし
集うひとびとの笑顔の写真はまぶしいくらいだった。
虔十の会(ケンジュウノカイ)の高尾山や圏央道トンネル工事に対する思い

ちなみにちょっと前にアップされていた
メールでマイ政治家GET作戦 なんていうのは
ほんとうにすごいアイデアだな~とワクワクしてしまうと同時に
お腹の中で「これやる!」といのちの炎、やる気、よくするぞ!という想いが燃えた。
リンクがはってあるので↑↑ぜひご覧あれ。

一ヶ月ほど前、世間をにぎわした田母神さんの論文問題。
“国民の怒り”とひとくくりにされテレビで流れた「意見」は
わたし個人の考えはあまりにも遠く混乱するくらいで、
なんとも言えない感情、疑問をおぼえた。こんどそれは勇気を出して書きます。

とにかくそんなときに、
ナオさんのイベントを聞き、そこでは沖縄やんばるの基地問題を扱うと聞き
わたしにも出来ることがあるならやりたいと手伝わせてもらい
ポスターを描いた。
その絵をナオさんが坂田さんに見せてくれたことで、
このシンポジウムのポスターイラストをやらせてもらえることになった。


わたしは、高尾のときやんばるのとき同様に、
恥ずかしながら泡瀬干潟という土地すら知らず
でも電話越しで聞いた坂田さんの笑い声や「あわせ」という響き、
「命にぎわい」とか「海と山のセッション」という
音楽みたいなキーワードがあって、
「とにかく楽しい感じの絵を~わははー」と肩をぽんと叩かれ(た気がし)て、
すぐに”描きたい!!”と思えたのだった。

じっさい、超ーぅ楽しく描いた。
陰陽のアイデアがまずあって、でもドキドキしちゃって進まず、
それが天狗さんを描き始めたあたりから、
ひとりで描いてる感じじゃあなかったんだよなー楽しくて楽しくて。

2つ前のブログタイトル「いのちヤッホー」は
イベントにも来てくれたオペラ歌手で親友の美穂をイメージしているのだけど
そうだ、彼女は「キス」が大好きで、ラブラブとかも連呼するし
あのテンションだー!と、山と海にキスさせた。

ジョンもヨーコも言ってたもん、「愛し合おう」って。

そうして出来た絵を見せたら坂田さんが
シンポジウムの名前「LOVELOVEシンポジウム」に変えました、って!!!
「いままでこんなネーミングのシンポジウムなんてなーい!笑」って。

23日、わたしもこのシンポジウムを聞きに行ってみようと思います。
弥生講堂もすてきそうだ。

ほんとうに、この絵をわたしに描かせてくれて、
すべての繋がりに、感謝。
30才は「絵を描くでびゅー」記念年だ。

ことばにあぐら

2008.12.17 08:32|書くこと
シリーズクラスの日記は記事数20にもなった。
全12回のクラス、あいだで行ったオープンクラスは2回。
前後編二回にわけて、一度のクラスを綴ったりした。
だれか1から通して読んでやってください~。→ここが始まり。

でも9回目のクラスレポをさいごに
わたしは特にアーサナのときのことをそれ迄ほど詳しくは書かないでいる。
気づきが大きくて、またアーサナの渦中のことを
日を改めて文章化することが、できなくなってきたのだ。

とはいえそれは、やろうとして出来なかったわけじゃなく
そうしようとしなかった、しぜんに選ばなかった感じ。

なんでかな、と考察してみたいと思ったけど、
それで良いと思いつつ気づきつつここに至ったので、やめることにした。

その代わり、クラスの前後にあった日々のことやずっと頭で考えてきたことが
クラスでの気づきと絡まり改めて、文字通り「体得」したり、作品も書いていたし。


話しが変わるようだが
現象や想いを、言語化するということは、善し悪しではかるものではない。

 じぶんも含めブログについても、善し悪しの議論を展開するひとは多いけど、
 そーんなつまらんことを言うのは、単に嫌悪感からに過ぎない。
 そういうなか橘川幸夫氏による深呼吸宣言(←ご一読あれ!)は共鳴した。
 「深呼吸する言葉」で展開することはアクションだから、やっぱり意識が違うが
 でも、ある意味このブログも心意気は同質だ!


では何かというと、言語化は、各個人の趣味嗜好だ。
あらゆるシーンにおいて。
やりたきゃやればいい。反対にやりたくなければやらなきゃいい。
自覚的選択があることが、いちばん素晴らしい。


また自分の中の何か、
それが例えば「悲しみ」という単語があてはまりそうな場合
「とてもそれだけには込められない」と抵抗を感じること、誰にもあるだろう。

それは思うに、他者の悲しみと自分の悲しみに自ら設けた隔たりだったり
自分の悲しみは他の人の悲しみとは違うという、時にエゴだったり
もしくは、その言語に対する不信だったりする。

わたしもそうだったし、ある意味そういう部分を大切にもしている。

でもわたしは、「信じることにした」者だ。
「悲しい」という言葉を信じ、人により命を与えられる言葉だからこそ、
自分の悲しみも、人の悲しみも信じることにした、
という立場を選んだ、そういう種類の人間だ。

それに言葉にはたくさんのバリエーションがある。
悲しみ、哀しみ、カナシミ。もしくは切ない、辛い、哀れを選べるかもしれず
もっと言えば、人が宿ることでそれこそ十人十色の「悲しみ」が生まれる。


だから、言葉にはとても変換できない! というようなことも
今の自分なりにチョイスし、言語化してみることは、
それはそれで意義があり、楽しく、気づきとなる。

また、ある部分では、それを行う責任も人にはあるのだとも思う。

みな言葉を使って生きている。言葉はコミュニケーションツールだ。
そしてわたしたちは、社会でもシステムでもなく「人」と関わり生きている。
そのことに、誰もが人生をかけて苦心している。


言葉を信じることは、同じく言葉を使って生きる他者を信じること。
悲しいという単語を信じることは、他者の悲しみを、信じることだと思う。
それは、自分の発する言語としての「悲しみ」を相手にゆだねる勇気でもある。

でもまた、言葉は発したときにはすでに過去のものだから(ヨガで学んだ)、
それがすべてだと思ってはならないと強く思う。
悲しみと表現した想いが、つぎの瞬間愛しさへと変わることがある。

さらに言えば、言葉の本来の力=言霊だけに、頼っていてもいけないとも思う。
信頼は絶対だけど、おごってはならない、
わたしは神の言葉を話す者ではなく、
わたしは、あらゆる縁を享受したわたしの言葉を話す者。

『言葉に胡座』 という詩を書いたのはそういう想いからだ。


今回このシリーズクラスが、私個人的には、
その最終回を目前にイベントとして昇華したような、この流れ。
すんごいことだと、ありがたいことだと思う。ぜんぶが学びだった。

だってわたし、シリーズクラス日記の1を見ると分かるけど
ここにきた目的を、創作のためだと捉えていた。
だから、ことし最後の朗読ができたこと、
大切な詩を紡ぐまた新たな経験ができたこと、絵を描いたこと
ほんとうにあらゆる縁に感謝してる。絵本のかみさまにも。


わたしの創作は、世界平和のためです。
自分のあしもと毎日をいのちいっぱい愛するためです。
「あなた」を想うこと、それが世界を想うこと。
わたしが平和になること、それが世界の平和の実現と信じて。
そう、War is over! If I want it! なのです。


つぎのシリーズクラスは2月から始まる。
2009は、ヨガダイアリーというものも買ったし
こうしてブログでヨガ日記を綴るかは分からないけど
でもきっと、書きたいことを書くんだろうな。それが良いや!

いのちヤッホー

2008.12.16 15:09|ヨガ シリーズクラス1
ハタヨガ入門シリーズクラス@SHIZEN YOGA 12回目! さいご!
さみしいようで、つぎへの展開の楽しみもあり
とにかくいつものように「今にあること」を意識できるように。

しずか~に、はじまったクラス。
呼吸を意識して、いつものさいしょのマントラ。

 大いなる力がわたしたちを守ってくれますように
 わたしたちが正しく学び理解する能力が与えられますように
 わたしたちの学びが光で満たされますように
 わたしたちのあいだに争い事がおきませぬように


黙想し、「わたしにとっての幸福とは」を考えシェアした。

わたしは、幼い頃からよく父親が言っていた「」を想った。
たいせつな人々とのを想った。そして、山や空や海を想った。
子どもたちを想った。無邪気という言葉を想った。

自分のなかに、自分のまわりに、
個人、家族、会社、集まりetcさまざまな単位の「内部紛争」が起きている。

でも、そのなかで暮らし、確かに無邪気に笑っている瞬間の子どもたちも、在る。
何かを逃避するでも放棄するでもなく
苦悩も矛盾も怒りも落胆も共にあるまま、無邪気に笑うおとなも、在る。

3ヶ月前は、自分の問題、家族の問題を、こうは捉えられなかった。
でも、確かにわたしにも、それらを無視するのではなく
無邪気になれるときがあることもいっぱい見つめることが出来た。

お気楽だから無邪気なのではない。
純粋=無邪気ではない。
無邪気は、作為やいつわりがないままに、
エゴも嫉妬もすべてあるがままにあることだ。

子どもはきれいな天使じゃない。
子どもはちいさな体にいっぱいのわがままもずるさも悲しみも持っている。
おとなを苦しめるほどのものを内に燃やしていたりする。

無邪気、輪。そこはとても風通しが良い。
こころが行き交う。嫉妬も思いやりもエゴも涙も。

人の輪、もしくは自然の中でそれを想うとき
わたしは、大地や空や風、友達と、同じ成分で出来ていると感じる。
山をきょうだいと、想うことがある。
夫や家族や友達がいる、それが至福で涙が出るときがある。
そのとき無邪気の気が満ちるんだ。


アサナは丁寧に、これまでのキーワードが復習のようにくり返された。

自分を信じる土台を作り、胸をひろげる。
目が見ている方向にしか、向かっていけない。
アヒムサ、サティア、アステア
わたしのなかにあるブロック、身につけた鎧。

わたしには、動き(アサナ)のときもいつも、
創作や人生に対する教えだとも、ビシバーシ感じまくった。

上に伸びるときは、まず足を踏みしめる。これは大きな気づきだった。
手は手の力で、首は首の力で、腰は腰の力で。頼らないというのも。
そうだ、わたしはその目的もありここへ来たんだと思い出した。
わたしはわたしの力で立つ。もちろんあらゆるものに支えられながら。
でも虚偽の力で立ちたくない。

最後に、もういちど黙想をして、
なぜ、自ら選んでここに来てヨガをしていたか
を考えシェアをした。

わたしは、一番最初に言っていた
自分自身になるために」に戻っていた。
スタートとゴールに、同じ目的がこころにあった!
わたしの目的と、わたしの意思が、ずっと共にあってくれたことに感謝したくなった。

自分自身になってどうしたいか。
愛しいものを愛し、書き続けていたい。
不必要なものを手放していく勇気が欲しい。
守ってくれているものや支え、それらをずっと信じられるよう強くなりたい。

これからの長い人生をかけて。

さいご、呼吸を味わっていたときにナオ先生が言った、
「この呼吸に、生きたいという意志があります」
あぁそうだ、生きたい。ぜんぶがぜんぶ、生きたくってのことなんだ。
わたしは生きていくんだー!!

ナオ先生、そして同じクラスを取っていたみんな、
ほんとうにありがとう。
ヨガをもっとやると良いと背中を押してくれた夫も、ありがとう。
超ぉぅ、たーのしかったよー! 生命ヤッホーヤッホッホー!

土曜日にあったイベント「意識のある暮らし第一回」レポは追って!

日曜はゆきの赤ちゃん、月曜は職場の、産休中の人が赤ちゃん連れてきてくれた!
嗚呼、いのちヤッホー!

意識のある暮らし「みんなの気持ちをみたす日」

2008.12.11 09:00|tuckchickborn
    意識のある暮らし 第一回

   「みんなの気持ちをみたす日」
~満月の下でやんばるの森に想いをはせる~


   意識のある暮らし 第一回ポスター 意識のある暮らし 第一回 内容

12月13日(土)はことし最後の満月の晩。  美里紀誕生日おめでとう。
その夜19時より吉祥寺のヨガスタジオ SHIZEN YOGAにて
意識のある暮らし 第一回と題したイベントが行われます。

*ヨガは大きな動きはしないので着替えは必要ありませんが
あぐらをかいて座るので、楽に座れる格好で。
それからマイカップをご持参ください!*


今回は、主催のナオ先生により
沖縄本島北部ある豊かな森「やんばる」で起きていることが取り上げられます。

テーマは「みんなの気持ちをみたす日

まずは自分の内側に目を向けてこそ
世界についてもはじめて考えられる!
だからイベントは、浄化の力を持つホワイトセージの香りと
ヨガ、そして月に呼びかけるマントラを唱えることから始まります。

もちろんガイドはSHIZENの人気インストラクター ナオ先生
日本ではまだわずか3名しかいないという
クリシュナマチャリアのヨガをあますことなく伝えてくれる
あったかくておもしろくてすばらしい先生です。

スタジオの雰囲気味わいやちょっとしたヨガ体験のつもりで来ても
味わい深いひとときを過ごせると思います。

トビウオリアキさんによるヴィオラ演奏。
コラボでお送りするは、ワタクシおおかわひさのによる
ポエトリーリーディング!

こころとカラダを開いたあと
意識のある暮らしについて考えてみる、という内容です。
本編のほうでも、演奏やトークセッションと盛りだくさん。

当日スタジオを飾るのは
tuck chick bornわたしの相方あつちえりこによるPeace Tree
ええこの木はいつも良いから、と楽しみにしていたけど
今日、現物が届いて、10倍驚きました。
すんばらしくて、ちょっと泣いた。↓チョットだけ↓

      ええこ作Peace Treeにはヤンバルクイナも!

手紙には、へんな、へのへのもへじじゃなくてへつへつなんとかさとかいう顔文字があったり
ロケットエンピツの模写がしてあったり
「今日、凪におかあさんのじまんは何って聞かれて、こまって
 短気じゃないところっていったら、ふぅん短気じゃあないねって言われた。
 じまんできるところがいがいになくてへこんださー」って。
ばかねーこんなのを作れるのにどうしてこの人はいつもこうなの、のんきなの。
久々にええこのでかいサイズの作品を見たからか、圧倒されました。


イベントの最後には
ひとりひとりが木の葉カードにメッセージを書いて
このPeace Treeをデコレーションし、
今日も座り込みで非暴力の反対運動を続けている
やんばる高江村の人たちに送る予定にです!!

2008年最後に満ちた月の晩、いっしょにSHIZEN YOGAで過ごしましょう!
予約はSHIZEN YOGAオープンクラスページから(先着50名迄)。
飛び込み参加OK,わたしへご連絡下さっても良いです。


先日の感謝祭でドミニカ先生が言っていた、ミクロとマクロのはなし。
わたしもこのミクロにちゃんと立って、ヨガをし詩を読んで
マクロに、世界平和の実現に、働きかけられたらと願います。
    あなたも!

参加希望の方、興味のある方、ぜひご連絡くださいね。
Workshopページで詳細がアップされています

「これがわたしだ」

2008.12.10 17:23|ヨガ シリーズクラス1
ハタヨガ入門シリーズクラス11回目。
さいしょのマントラ。
そして黙想。ふたたびアステア(=盗みをしない)について。

わたしは今度の一週間は
ありがたい縁により何より嬉しいようなことがもたらされ
外に何かを求める、盗むということをあまりしないでいられた。
だからこの感じをキープできるようにしたいとわたしが言うと
笑顔で聞いてくれたナオ先生が「それは無理」とスッパリ。笑
ぜったいにまた、アップダウンはあるもんねーということ。
ハッ。まったくそのとおり。

キープしようとすると守って縮こまっちゃうから
何かが来てもまたすぐに自分の中を空にして
どんどん変わっていこうって解放していたほうがうまくいくって。

そーだー。
わたしはことし(去年?)「どんどん変わっていく」がテーマだったのに
じぇんじぇん分かってなかったなー
こういうときこそ、オープンハートなのか。

こないだひいたおみくじにも
「元気を出して流れのままに流れていけ」というメッセージがあって
そうか!と思っていたけど
気に入ったとこに来たからってまたそこに留まろうと
流れを止めたり逆らったりしたら、水は濁る。そういうことだ。

前々回から終わりに唱え学んでいるマントラは
「Closing Prayer」というもので
“どんな意識的無意識的行為も
 ナーラーヤナあなたに捧げます”

という意味が込められているらしい。

ナーラーヤナはすべての生命を創造したもの=Om
で、「神さま」というようなこと。
神さまでも、宇宙でも、ここは自分がいちばんしっくり来るもので
良いのだとナオ先生もよく言うけど
とにかく、意識を超えた、目に見えぬ偉大で大きな力のこと。


はぁ、なるほどなぁーと思ったのが、
つまりこれは、わたしたちの行為は(良いことも悪いことも)
自分ひとりで行っているわけじゃなく、
成し遂げたどんなにすごいことも、
神さまだったり、縁だったり、家族だったり、友達だったりがあって
はじめて自分がそうすることができた、という考え。
だから、自分ひとりの手柄として、自分の中に留めるのではなく
手放す、返す、捧げる。
これが、良いことも悪いこともというのが、重要だなと思う。
むずかしーのだけど。でも、おごるなということですよね。

でも戒めのマントラじゃない!

なんだか色んな感情が、このクラスの後にすでにあるんだけど、
ナオ先生に言っていただいた。

100%純粋じゃなくて良い。
急がないで、自分を生きて、まず自分を愛すこと。
きばらず楽しむこと! まずこれだね!


が今のわたしにいちばん大切なメッセージだ。
良いんだ、ぜんぶまるごと、良いんだ。

アヒムサ、サティア、アステア・・・
色々考えて色々触れて
自分のエゴ、自分の暴力、自分の嘘、自分の背伸び
このところ、いっぱい考え、認めたようで、
いやこの10年、この人生、ずっと認めてきたようで
これはだめあれはだめ、もっと純粋になろう、
もしくは、いんやもっと頑張ろうって、とにかく気張ってたのかも。

ほんとにほんとにまだまだですなー
ほんとにほんとに。
でも、これでいいんだ。
これからまだまだ生きて、これからまだまだ成長するんだから、
今は未熟でぜんぜんいいんだ。
悟るよりも、味わい尽くすが大事って、ほんとだ、そうだ。

前回クラスのじぶんレポの記事で
Sthiram(心地よさ)
Sukham(安定)
Asanam(アーサナ)
について書いたけど
ちょっと足りてなかったと、さらに深く説明をいただきました。

スッティーラムは安定性、安定していること、
それは落ち着いてること、足元、心、自分を見れている状態

スッカムは「スッ」が広がった、「カム」が心のスペース=ハート=生命=意識
だから、心地良いこと
それは感じるということをし続けられること、
心地よくてボーッとしちゃうんじゃなくて完全に目覚めてる
自分を感じることをしっかりできている状態

そのふたつが50/50じゃなくて
りょうほうともが100,100,あって、はじめてアーサナであると。

Sthiram(心地よさ)とSukham(安定)の両方ともが
自分のことをちゃんと見られている状態を作る要素というか、
土台になっていて
つまりはアーサナのときに、
自分を味わい尽くせるということが
すごく重要になるんだなぁというのが
よく分かったし、

今の自分にもたらされた、大きな大きなメッセージだなと

あーすごい、なんか今、ものすごくでかいものを感じてやまない。
これを書いているこの瞬間。 ありがたくってたまんない。

昨日は最近観たくてレンタルしていた『魔女の宅急便』を見た。
何度も見てるけど、今回は、
にしんのパイのおばあちゃんがキキを呼び出して
キキのためのケーキを焼いていてくれたこと
「誕生日を聞いて欲しい、またケーキが焼けるでしょう?」
と言ったところで、無性に泣けた。

そうだ、認められたくって、あたりまえじゃないか。
おちょうしもんで、いいじゃないか。
外に求めたって、いいじゃないか。
これが、わたしだ。すばらしき、みんながくれた今日のわたしだ。

横尾生まれのテディベア

2008.12.06 16:50|暮らし
10月23日。10年前、姪が生まれたその日のことを
わたしはほんとうに鮮明に覚えている。
カーテン一枚の向こうから聞こえた初めての産声。
想像もことばも何もかもを超えて、
母と顔を見合わせたらお互いに涙が溢れた。
次の瞬間、義兄におめでとうとこころから言った。

ちいちゃかったあの赤ちゃんが
10才の少女に成長した。
たくさんの笑顔たくさんの涙たくさんの戸惑い
それを祝福したくて
また少しでも彼女の人生の力になれたらと
思い付いたのが、テディベアを手作りして贈ることだった。

ひと月と少しのじかん。
生まれて初めてのぬいぐるみ作り。
わたしは決して器用じゃないし、もともと裁縫はほとんどしない。
でも、やればやるほど楽しいものだった。

こころを込めたひとはりひとはり。
ベアの耳や手足に綿を詰めるときは
彼女の耳がこれからの人生
愛に溢れた言葉や音をたくさん浴びるように
手足は強くたくましく彼女にすばらしい経験をもたらすように。

teddy1.jpg 完成!

彼女が成長し、このベアを手にすることが少なくなるときも
枕元で彼女の眠りを見守るように
ベアにはたくさん語りかけた。
力になってあげて欲しい
彼女がじぶんのすばらしさをいつのときも忘れないように
そう語りかけるようにと、ベアに祈った。

仕上がりは、吉祥寺のカフェ「横尾」にて。

チクチク縫い仕事をしていると、
高さの低い席に移動しますか?と声をかけてくれた。
スツールも、なかなか良かったので大丈夫ですと感謝を伝えた。
いいお店だなぁと思った。

お抹茶と、干し柿のおしるこを食べた。

姪がおとなの女性になったとき
彼女もたくさんの豊かなひとりのときを過ごせたらいい。

それもまたベアに語った。

teddy2.jpg teddy4.jpg teddy5.jpg
↑いろいろとポーズをとらせて撮影しまくり。親ばか。
 くまちゃんは姪のものになるけど
 製作の幸せなひとときは、ベアと何より姪の存在がわたしにくれた
 とびきりの贈り物でした。


テディベアの誕生日は、首にリボンを結んでやる日らしい。
それは彼女の役目でしょう、すてきな名前をつけてあげてね。

先月、ベアの完成よりも前にできあがってしまった
自作のお話し、テディベアと10才の女の子のお話を
ちいさな本にして添えて、少し早いクリスマスプレゼントで贈ります。

材料などの購入先→テディベアギャラリー。非常に親切でした! また作りたーい。

じぶんじしんにじぶんでなる

2008.12.05 08:30|ヨガ シリーズクラス1
数年に渡り、ヨガスタジオというものに定着できなかったわたしが
今通っている吉祥寺のSHIZEN YOGAでの感謝祭
喜び勇んで出かけるようになっていた。
これもひとえに、ナオ先生と、シリーズクラスのみんなとの出逢いのおかげだ。

すごく楽しくて、たくさんはしゃいだ。
なんでこんなに、素の自分になれたんだろうと、あとで思った。


シリーズクラス10回目12月の最初の夜。
マントラを唱え、少し身体を動かしてから黙想した。

Yamaの三つ目「アステア」=盗みをしない ということについて。
自分が盗みをしているときについて考えた。

それで思ったのは……
初対面の人がたくさんいるような場へ行くとき
わたしは気負って、また、より深く出逢いたいと思って
例えばその場にわたしを呼んでくれた立場の人など
キーになる人の「すてき」を借りて、いや、盗んで、
普通以上に自分を背伸びしようと意識が働く。

それはけっきょく「いいとこみせよう」という緊張状態だから
ちっとも自分らしくいられなくて、孤独で、疲れてしまう。

それでも得るものや感動があるのは
他でもない、やはりその場にいた人たちの素敵さからだろうに
自分勝手に傷ついた自尊心は、その人たちの粗探しをさせる。
「あの人あぁだったけど、でも、こぅだよね」
とかって、帰宅後ぼやいたりする。最低デスワヨネ。。。


ヨガの考えでは、こういうことになっているらしい。

わたしたちは、わたしたちのなかにすばらしい宝物を
すでに与えられじゅうぶんに持っているのに
それを見つめず、外や他ばかりに 求め=盗みをす る。

そしてそれをする限り、満足することがないのは
盗みをしようと手を伸ばすところから穴になってしまうから。

盗みをやめ、自分の中の宝物に気づいたとき
穴は回復して、わたしのなかには
いつも素晴らしいものが満ち足りる。


あの、感謝祭の夜。
わたしは、何も心配じゃなかった。多少緊張はあったが
楽しみで、誰が来るのかな~と、胸をおどらせていた。
あの場で起きることに、未知だが、信頼をしていた。

それは居合わせた人たちがすばらしかったのももちろんだが
じゃあ、今までのは ?とよくよく胸に手を当ててみると
けっきょく自分自身の在り方次第、なんだ。


アステアの話のあと、
スッティーラム スッカム アーサナ
と、これだけでマントラになっているという
ことばのレクチャーから、アーサナを始めた。

Sthiram(心地よさ)
Sukham(安定)
Asanam(アーサナ=ヨガのポーズのこと)


ヨガのポーズとは、心地よさも100、安定も100、
それがあって初めてアーサナであると言えるらしい。
(心地よさ50+安定も50=それで100 なのじゃなくて!)

だからその、本当のアーサナに努めよう、と。

これはすごく難しいことだった。
自分は無理をしていないか?
一方で、妥協もまた、してはいないか?

身体の声を無視して無理することも、妥協してしまうことも、
自分の身体に対する、盗みだと、ナオ先生は言った。

だから、探りながら呼吸しながら、
スッティーラムスッカムアーサナになれるポイントを見つける。
汗がまたじんわり出て、この日はすぐに足元まで温まってきた。

三角のひねりのポーズ、今までにない心地よさがあった。
筋力に頼らず、呼吸で体勢を戻してくる。
そういうのも、時々、少しだけ分かったときがあった。

説明のとき、どんなポーズのときも
こもったり詰まったり苦しそうにならないナオ先生の動き
改めて、美しい・・・と見とれてしまった。
そうか、スッティーラムスッカムアーサナだからなんだ。


さいごには新しいマントラを唱えた。
良い集中のまま、ナオ先生に続いて、みんなで。紙はナシで。
そのときの音がすばらしくて
自分でも嬉しくなるくらいだった。


思い出していた。
わたしはこのシリーズクラスをはじめるとき、
今ここに生きる自分になりたい。
よりいっそう自分らしく軽やかに歩みたい。
必要でないものを手放していく勇気も持ちたい。
自分自身になりたい と言っていた。

特に出版社への持ち込み営業のとき
背伸びをしたり、ぎゃくに恐縮しすぎたりして
あとで「もっと自分らしく出来たら絶対に良かったのにぃー」と
完全ではなくとも、悔やみたくなんてやっぱりない。

自分が持っている良いもの、
自分の幸せを、もう分かってきているから
きちんといつも、それと繋がっていたい。
人と比べてもどうしようもないのだから。

自分自身になりたいとはそのことだった。

「ちゃあ」でいると、明るくて素直な自分でいられる気がして
シリーズクラスでは、ちゃあと呼んでくださいと自ら言った。
ええこもゆきも、学生時代からの友達はわたしをちゃあと呼ぶ。
子どものときは、ひさのの名で呼ばれるほうがめずらしかった。
あの頃の、わたし。

少なくとも感謝祭の日
わたしはそんな自分に、少しだけ、自分の力でなれていたんじゃないかな。

シリーズクラス、あと2回! 2008年も師走だす!

タネの魔法

2008.12.04 08:24|絵本や童話のこと
煌ちゃん展示のそのあと、
大汗をかきながら恵比寿はギャラリーhotsumiへダッシュ。
9月以来、二度目となるおつきゆきえさんの朗読を聞きに。

尚子さんやcharanの亜衣さんも出展した
seed[たね]vol.2 「はじまりのたね」という企画展の最終日。
seed DM

「おとなのための絵本の会」ということで
今回は宮沢賢治作品以外になると聞いていたので
それもまたすごく楽しみだったけど、
はぁまったく期待以上で。。。。。

取り上げられた絵本は、
「もけら もけら」
「月夜のみみずく」
「ダイアナと大きなサイ」
「パパはジョニーっていうんだ」
「19のしつもん」 
(←タイトル忘れ。。。)

最後に新川和江さんとまどみちおさんの詩を読んで終わった
おつきさんの朗読会の今回のテーマは
seedに応えて「受容」と掲げられていた。

月夜のみみずくで描かれる父と娘の「とくべつな時間」は、

お風呂上がりパジャマにコートを羽織ったわたしが
仕事から帰ったばかりのスーツ姿の父に連れられて行く
夜のセブンイレブンのぼやんとした灯りを思い出させ
(真夜中の森と、セブンイレブンじゃあ、違いすぎるけどネ)

「パパはジョニーっていうんだ」ではもう号泣してしまった。

朗読のあいまのおつきさんのお話しは
爆笑してしまうくらいおもしろいし
絵本をこんなにも隅々まで読み解き味わえるなんて
絵本そのものもすごいがほんとにおつきさんがすごい。

おつきさんが読み触れることで
絵本が呼吸しはじめる、絵が空間が色が踊り出す。
「魔法だ・・・」とこころから思った。

ほんとにそう思う。おつきゆきえさんは、たぶんある種の魔法使いだ。

いい絵本にはたくさんの魔法が眠っていて
こどものココロはそれを目覚めさせるのだと、
何かこう、改めて意を強くしたところもあった。
(その魔法はやはりこどもと相性は良いかもしれないけど、やっぱりこどもだけのためじゃあない)

そして子ども時代のさまざまで「とくべつなじかん」は
こころにやはり魔法の種を蒔く。

魔法といってもそれはしかけめいたものではなく
ファンタジーというもののほんとうの力。

大人になって今なお今こそ、ときどきそれがふぅっと芽吹く。

疲れた夜がぐうぜん慰めてくれるような満月だったら、それもそうだろう。
雨にぬれることなく家にたどり着いたとたん
まるで空が止めてた息をふーっと吐くみたいにまた雨がこぼれだしたら、
それもきっとそうだろう。

おとなもこどもも、とくべつなじかん、やさしい魔法を
受容して、ぐんぐん芽吹いて生かされている。

いのちの文様を編む

2008.12.03 08:01|暮らし
煌めく子 画家の小林煌ちゃんから
池袋のカフェzozoiで姉妹展をすると案内をもらったので
週末、お昼を食べがてら出かけた。

ohana展 DM

久しぶりに会った煌ちゃんは
フラをはじめたらしく髪の毛がロングになっていた。
お姉さんの、粘土で作り出したたくさんの花々と
煌ちゃんの変わらない絵と笑顔。
hawaiiのパワーをもらった。

9月に再会した聖ちゃんもフラをはじめたと言っていたので
気になっていた本『日々是布哇(ひびこれハワイ)』
彼女の誕生日用にと注文したものの取寄せ不可の連絡をもらってたのが、
今日見てみると[在庫あり]に。さっそく再注文!
今なら、クリスマスプレゼントとして贈れるね。

日々是布哇(ひびこれハワイ) アロハ・スピリットを伝える言葉日々是布哇(ひびこれハワイ) アロハ・スピリットを伝える言葉
(2006/06/22)
北山 耕平デブラ・F・サンダース

商品詳細を見る


この本は、“毎日のことば”が書いてある詞の本で
もともと知ったのは、北山耕平さんのブログNateive Heartで。
毎週月曜に更新される、このHawai'i Book of Daysによれば

今日、12月3日は
「あなたが創造するありとあらゆるものに
いのちの文様(もんよう)を編(あ)み込みなさい。」

とある。

びっくりした。
別記事として後日アップしようかと、今日、
つらつらとわたしはこんなことを書いていたから。
そのままアップすることにする。

***

ええこが裁縫にとどまらず、今は刺繍にはまっている。
「意識のある暮らし 第一回」のイベントのために
制作をお願いしたPeace Treeも彼女は刺繍で作り上げるらしい。

縫う、(糸を)紡ぐ、編む。
その動詞はそのまま、暮らしやことば、想いにも係る。

暮らしを紡ぐ。ことばを紡ぐ。日々を縫う。詩を編む。

ええこは糸を
わたしはことばを
そしてふたりともがそれぞれの暮らしを。

そういうことだねと、少し前に手紙で書いた直後、
読み始めた『からくりからくさ (新潮文庫)』が
糸、機織り、模様、草花、色そういう世界に溢れていたふしぎ。

同書、展開の中心にある「りかさん」という人形。
人形というものを魂の宿場と表現するものがたりを読むときに
わたしが生まれて初めて人形を作り始めていたというふしぎ。

すべての事柄が
わたしの暮らしの模様を編み出していく。

***
zozoiで、ひさ~~~しぶりにピアスに恋した。
金色のイチョウのピアス。
大ぶりで左右非対称で、今もわたしの耳で揺れている。
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